プロボウラー亀井勝江のブログ

(公社)日本プロボウリング協会公認プロボウラー14期生・亀井勝江のブログです

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あれやこれやと歴史は動く

NHK大河ドラマ篤姫」,いよいよ、薩摩を出て江戸へ旅立った。
「世が世であれば、薩摩はイズミの稚児はんで島津の殿様が・・・」と祖母が何かにつけ私の父である息子に言っていたのを思い出した。その頃、身分制度というものに抵抗していたせいか、気にもとめてなかったのに、篤姫や、島津斎彬たちでなく、隅っこに座っている家来たちに目がいって、ひひおじいさんがあのあたりいたのかもとドラマを楽しんでいた。ただ、そのイズミは、鶴が舞い降りるところという。篤姫の生家、今和泉家は、鹿児島市の南になり、砂風呂で有名な指宿市との間にあって錦江湾沿いにある。だから桜島が見える。鹿児島の西にもうひとつイズミがあって、毎年鶴が居る出水市がある。そこは八代海を望む肥後(熊本)との国境にある。島津氏は薩摩の藩体制強化のために薩摩武士を国境に住まわせるという独特の外城制度があって、現在その出水市には、武家屋敷が残っているという。亡き父が19歳の頃、その出水の島津家の墓地から熊本に移したと、先日伯母から聞いて、「薩摩の稚児さん」に間違いはなかったけれど、どうも出水の薩摩藩士で、ドラマの今和泉の家来たちの中にはひひおじいさんは居なかったのだ。
どちらにしても明治維新という怒涛のなか下級武士であれば、西郷さん大久保利通さんたちと薩長の討幕軍の中にいたはずだし、後年、その志士たちの子孫は華麗なる一族として、日本の政財界で活躍しているけれど、墓石群の中くらいのところに墓石が在ったという宮田家の子孫たちは華麗ではなくつつましく生き延びている。あの怒涛の頃をどうしていたのだろう。
  篤姫の江戸参府は、ドラマでは海路になっているけれど、史実は陸路でほぼ2ヶ月がかりで江戸へ入ったという。この出水市は通過点となっているから、ドラマが史実通りであればどこかに座って頭を下げているかも。はからずもタイムスリップしたようでドラマと史実の間をさ迷っていたけれど、近代史の中の日本は、篤姫が鹿児島を出発した1853年、黒船が江戸湾浦賀に来るなど明治維新に向けて怒涛のように動いていた。篤姫はその後、1857年1月将軍家定と婚礼を挙げる。
1858年8月、家定死去 1858年10月、落飾して天障院となる。
1862年徳川家茂和宮の婚姻があり、天障院は姑となり、大奥の渦中の人となる。
1868年、薩摩を中心とした倒幕軍が江戸城入城し、かの有名な無血開城となったのだ。
そのとき歴史は動いていたのだ。ボウリングの。
和宮の婚姻の前年、1861年文久元年)6月22日に、長崎の外国人居留地出島に国内初のボウリングセンターがオープンするという英文の新聞広告が出たのはそのとき。
今、これをもって、6月22日が「ボウリングの日」となった。


2008年4月号