プロボウラー亀井勝江のブログ

(公社)日本プロボウリング協会公認プロボウラー14期生・亀井勝江のブログです

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アジア大会・ナショナルメンバーへ愛をこめて

北京オリンピックまで、あと1ヶ月余り。
ボウリングはまだ、オリンピックの正式種目になっていないが、アジア版オリンピックといわれるアジア大会は、1994年に開催された第12回広島で開催され、ヒロデンボウルでの金の攻防戦を覚えている人は多いと思う。
アジア大会でのボウリングが正式種目になったのは、1978年、タイ王国バンコクでの第8回大会。このときの金の攻防戦は、広島での攻防戦以上に壮絶だったと語り草になっているという。 この語り草の1978年といえば私がボウリングボールをもって3年目くらいの頃だから初めて聞く話だった。
2人チーム戦は、開催国のタイ王国と日本の僅差での優勝争いとなり、種田陽至選手の投球が終わり最終投球者の平井正美選手の投球で決定されるという状況になった。何とその差1ピン。ストライクしかチャンスはないという。
アジア大会初のボウリング種目で、開催国の名誉がかかっていて金メダルが欲しいタイ王国。ひな壇のギャラリーは3000人。平井選手が満を持してスタンスに入りプッシュアウエイを始める。とそのとき、ワーツと場内が沸く。慎重で繊細なタイプという平井選手は、その都度アプローチを降りたという。投球が始まりボールがトップにあってもだ。実はこれを書いていいかどうか判らないけれど、ギャラリーの声援?騒音?の合間にジャラジャラとコインの音が飛んでいた。これは何を意味するか?・・・・・。投げ始めるとワーツ。で投球を止める。この繰り返しで、この1ピンをめぐるギャラリーとの攻防は1時間に及んだという。とうとう、ナショナルチームの小窪重孝監督は、平井選手を呼んで何かささやいた。そしてその場で、ギャラリーの方を向いて「頼むから投げさせてくれ」と土下座をしたのだ。その時、場内は静まり返った。「よしそれだけいうなら投げさせようではないか」という雰囲気ではなく、土下座などタイ王国にはなかったのかも。あっけにとられたのだと思う。その静寂の一瞬、平井選手は投げ始め、終わった。で、ストライク!
これで、第8回夏季アジア大会ボウリング競技ダブルス部門の金メダルは日本のものになった。
この話をもう一人のナショナルメンバーで、去年のアジアシニア選手権を制覇した高橋俊博氏から聞いたとき、はじめ大笑いしたけれど、その状況でもストライクを出さなければいけないというプレッシャーの中、1時間かけても粘る平井選手と知将小窪監督、それを見守る種田、高橋の両ナショナルメンバー。この4人を思うと体が震える思いがする。これがアジア版オリンピックの歴史の始まりだった。

 
2008年7月号